黒塗りの高級車が、厳重な供の警護を伴って道路を進んでいた。夕暮れがすぐ間近まで迫り、漆黒がこの国にもそろそろ訪れるころ。


時折交わされる静かな会話以外は音のない車内で、少女の胸はおそらく、この車内の誰のものよりも高鳴っていた。オーストリアとの国交開始から140年、ドナウ周辺諸国との交流を深めるためのイベントの一環として催される舞踏会に、少女は彼女の兄の菊ともども招待を受けた。招待状に記された、 にはよくわからぬドレスコードとやらも、女性ものの服に優れた国であるフランシスに相談すれば、すぐにドレスコードに適った美しいドレス一式が届けられることで解決した。

裾のたっぷりと膨らんだドレスと、本物の宮殿を使った舞踏会。まるでお伽噺のような空間がリアルに迫り、慣れないドレスを着こんだ少女はそっと、隣に立つ自身の兄に囁いた。

「兄さん、心臓が過労死しそうです…」

その言葉に、異国の正装を着込んだ菊は静かに頷く。後ろに乗り込む我が国の皇子殿下がくすりと笑みをこぼすのをみると、 にもぎこちなく笑みを作れるほどの余裕ができた。一緒にいて落ち着く皇子夫妻は、表舞台の代表として来ているため一緒にはいられない。兄は彼らほどではないが、ずっと一緒にいるのはおそらく難しいのではないか…人見知りの気がある少女はこの先を慮ってはぁとひとつ溜息を落とした。しかし期待と憂鬱の入り混じったそれは、ただ知らない誰かと社交的な会話を交わすのが苦痛であるからという理由だけのものではなかった。

ほどなくして車は会場へとたどりつき、颯爽と夫妻が車を降り立つ。マスコミなどは入れない会場側の配慮が少女には唯一の救いだった。続いて長身の運転手がさっと兄弟の列のドアを開いて、車から降りた菊の靴が硬質な床に触れて音を立てた。差し出された手を取って、ドレスの裾をさばきながら、とても不格好に少女の靴は兄のものよりもすこし高めの音をふたつ、立てる。ぱたん、と車のドアは閉められて、さっさと走り出していった。 12時にならないとシンデレラは帰れないの?少女がぽつりとつぶやくと、兄はその発想はありませんでした、と感心したような声色で返す。

かつん、ことん、二つの靴音が城内へ招き入れられ、扉の両脇に立つ男性が二メートルの巨体でも悠々と通れるような扉を、兄弟のために開いた。


上品にざわめく室内、そこにはすでに多くの人々が集まっていたが、まだ楽団全体は沈黙したままでバイオリンの奏者だけが控えめに音を奏でていた。しかしそんなことよりも、少女の瞳を奪ったのはその内装であった。
劇場のように、周囲を囲う席は何階分もあり、さらには横にもいくつかに分かれていて、ひとつひとつが少しだけパーソナルなスペースになっているようだ。彼女たちの上司もおそらくそのうちのどこかにいるのだろう。他よりも若干年齢と品位が(こちらはもともと会場全体が高いのだが、さらにその中でもとりわけ)高めの人々で占められている。
豪奢なシャンデリアが天井から重く垂れさがり、散りばめられた飾りが光を幾重にも反射する。テーマパーク染みた別空間ではあったが、調度品の飾りは細かく彫りこまれ、全てのものに少しずつ重なっている長い歴史は、その美しさを決して作り物と同じようにはしない。重厚な歴史と、色あせぬ洗練された空間がそこにはあった。


幼げな兄弟の登場に、近くの老夫婦は微笑ましげな視線を向けている。しかし実際は彼らの想像の数百倍は生きているだけに、彼女たちはいつものように複雑な気持ちになりながら今日の舞踏会のホストである人を探しはじめた。なんにせよ人は多かったが、思ったよりも彼は早く見つかった。

「こんばんは、ローデリヒさん」

バイオリンの調べがひと段落したのを見計らい、兄が静かに声をかけた。ゆっくりと振り返った紫の瞳が、二人の兄弟に触れて和らぐ。

「Gruβ Gott、菊。遠いところまでよく来てくれました。」
「素晴らしい演奏でした。ピアノのイメージが強いもので、驚きました」
「楽器なら一通りは触れますよ。クラシックのものに限りますが」

肩に乗せていたバイオリンを片手で持ち、ローデリヒはぎゅ、と簡潔に菊と握手を交わした。 もおなじように手を差し出すと、手はしっかり取られたものの握手とは違う方向へ捻りが入り、持ち上げられる。彼のそれは真似ごとだけで実際にキスが落とされることはないが、それでも気恥かしくて は頬を染めた。薄い手袋越しの手の感触が離れる。

「貴方とはお久しぶりですね、 。」
「はい、お元気そうでなによりです…ローデリヒさん。」
「お二人とも揃ってなんです。ローデリヒとお呼びなさいと言ったでしょう」
眉を吊り上げたローデリヒに、兄弟はくすりと苦笑しあった。「申し訳ありません、癖なもので」兄の言葉に同意するように妹が頷く。
「仕方ありませんね。」呆れ気味に微笑んだ彼はちょっとお待ちなさい、といってバイオリンを片付け、兄弟のほうへとまた向き直った。

この空間は大きく分けて三つに分かれている。楽団がいるこの場所と、大きく開かれたダンスホール、そして食事がとれるスペース。壁に沿うように据え付けられたテーブルにはちょっとした軽食が並び、着席もできるようなテーブルは広間の三分の一程度のスペースを陣取っていた。その中で彼はたくさんのテーブルを選び、最初のセレモニーが始まるまで待っていましょう、と二人を誘導した。大きく開いたダンス用の空間にほど近いテーブルの近くで止まった彼は、音もなく一つの席を引いた。

、お座りなさい。ここが一番よく見えます」
「ありがとうございます。…でも、最初のセレモニーっていうのは、どういう…」
「デビュタント、つまり成人を迎える者たちによる儀礼的な踊りですよ。」

そういうと、ローデリヒはすっと鼻をダンスホールの方に向けた。菊たちが入ってきた方とは逆の扉から、白のドレスと黒の燕尾服の若者たちがペアで手を取りあい、列を成してホールに入ってくる。一見結婚式のような彩は、しかし招待状に書き添えてあった自分は避けるべき色のドレスだった。あれが彼らの衣装のようなものだとすると、確かに避けていくべきであることは間違いない。さわさわとさざめいていた拍手が鳴りやむと、楽団の指揮者がすっと指揮棒を掲げた。
音楽が始まる。

整然と並んでいたら彼らは一様に、同じタイミングで同じステップを踏み始めた。一糸乱れぬ、とはいかないものの、大人数が揃うと迫力がある。黒と白がかわるがわる、くるくると姿を見せる。そのうちに彼らの並びは崩れ、白と黒だけだった色彩に端の方から鮮やかなドレスが加わり始めた。入り混じる人々の姿に、菊はカメラさえ持ち込んでいたならと悔しそうに漏らした。 はといえば、その光景を今だに夢でも見ているかのような目で眺めている。音楽に合わせて心はゆっくりと踊りだしていた。

「思い出しますね、 。わが国で欧米の方を招いて行った、見よう見まねの舞踏会を」
「あのときは…、お互い頑張りましたよね、兄さん。」

兄弟は遠く昔を思う。アーサーを講師にして必死で覚えたステップは。もうすでに忘れてしまった。ただ何も、傷つくことすら知らなかったあの頃の自分たちが、先んずる国々に馬鹿にされまいとして作ったいくつもの足のまめ。それが今や8つの首脳国の一つにまで成長した自分たちの糧のひとつとなっているのは、なかなか感慨深いものがあった。

「そういえば貴方がたはワルツを踊られるのでしたね」
「…昔のことです。もう一世紀はブランクがありますから」
「それなら十分です」

すっと立ち上がったローデリヒは の手前に手を差し出した。わけもわからずそれを取ると、椅子から立ち上がるよう促される。
「一曲私にお付き合いなさい」
驚いて が菊を振り返ると、にこにこと笑いながら小さく手を振っていた。「じじいはここで美味しい料理を食べていますから、お気遣いなく」とさっそくいそいそと料理の方に向かう姿に、 は心の中でだけ悪態をついて、ローデリヒに向き直った。
「でも、ローデリヒさん…本当に、私踊れないんです。ローデリヒさんに恥をかかせてしまいます。」
「大丈夫です、私がリードして差し上げるのですからね。それにこの国の踊りはそこまで格式ばってはいませんから失敗を気にする必要はありませんよ」

…無理にとは言いませんが。彼は最後に控えめに付け足して、それから の返事を待った。彼の向こう側では、大勢の人が入り混じって踊っている。確かに、アーサーのところで昔に参加した所よりはずっと敷居が低そうだ。数組の男女が華々しく踊って、大多数がそれを見る、という形式ではない。楽しそうに踊っている。たくさんのひとが踊っているということは、集団に合わせる気のある日本の、妹である彼女をとても勇気づけた。

「あ…わ…私なんかで、よろしければ…」
「誘ったのはどちらだと思っているんです?この御馬鹿さん」

すくい上げた右手を自分の腕にかけさせ、颯爽と歩きだす彼に慌てて付いていく。彼は踊っている集団の端っこあたりで止まり、優雅に一礼を取るとぐっと距離を詰めてきた。整った顔立ちがほんの数センチ先に迫る「左手を私の肩に」吐息とともに少し上から降ってきた言葉に がおずおずと左手を動かすと、彼の右手が背に添えられた。びくっとした を安心させるようにローデリヒは微笑み、お互いの空いた手をぎゅっと繋いだ。

しまった、と赤面しながら は思った。この近さは日本で暮らしていては滅多にないものな上、彼は全世界の例にもれず非常に美形であり…さらには、大昔の彼女の初恋の相手だったことを、 は今更思い出したのだった。
しかし彼女の思考が落ち着く前に、反時計回りで世界は動きだす。

「Rechts、links…Rechts、きちんとできていますね。」

耳元でささやかれる指示通りに足を動かせば、自然に体が動いた。難しいステップのことは考えずに、ローデリヒに合わせるだけで の体は立派なワルツを踊る。
ローデリヒの向こう、くるくると、結構な勢いで世界は回っていた。

「こら、視線をお合わせなさい、目を回しますよ。」
「は、はい、っ」

窘めるような声に慌てて視線を戻すと、今度は紫の瞳から目を離せなくなった。どんどん顔が紅潮していくのが分かる。今や の瞳に映るのは、真正面にいるローデリヒだけになった。出会った瞬間、一目惚れした次の瞬間に既婚者だったともうなにがなんだかわからないほどの衝撃を受けて、一瞬で消えたかと思われた恋心だったが、一世紀もの間、こっそりと彼女の心の奥底で息づいていたらしい。変わらぬ淡い想いとは裏腹に、当時とは違って彼の隣にはもう美しいあの彼女はいない。寄り添い立つあの綺麗な夫婦が、あのころはただ理想的で羨ましくて、素敵だと思えた。彼らが大きな戦いの終結で分かたれたときに、国同士のあの関係の脆弱さを知った。…けれど人間もそう変わらないのかもしれない。彼らはたった一世紀たらずの命なのに、上司の命令でもなく離縁するから。
それでも、…違う、だからこそ。私は今の時間を大事にしたい、と思う。この平和な時を、大国で殺しあうことのない時代を、そして、この幸せな時間を。


音楽がすっと引いていく。 はいつのまにか切れていた息を整えると、周りが一斉に拍手を始めた。またなにか始まったのだろうか、ローデリヒから視線を外してみると、人で賑わっていたはずのダンスホールにはぽっかりと空間ができていて、自分たち二人がぽつんと立っているのが、分かった。そして二人を取り囲むように居並ぶ人々は、そのほとんどがホール上のひと組の男女に向けて拍手を送っていた。来賓席にいる彼らの上司夫婦も、テーブル席の少女の兄も、にこにこ微笑んで と、ローデリヒを見ている。 はあわてて、泣きそうな顔でローデリヒに視線を戻した。

「…やり過ぎてしまいました」
私としたことが、と彼は少しだけ頬を紅潮させる。少女はそこで積りに積もった羞恥と緊張が限界に達し、耳まで真っ赤にして思考を停止させた。意識を場外ホームランさせてしまえたらどんなにか楽だろうと思いながら、 はローデリヒに手をひかれ、拍手をしている群衆の中に交じっていった。によによしながら二人を迎えた兄を は涙目ながらもめいっぱい睨みつけて、テーブルの上に乗っていた兄の飲み物を飲み干し、空のグラスをテーブルに戻した。ダンスホールは先ほどまでの様子が嘘だったかのように、優雅にステップを踏む人々で溢れ返っている。意識がぼんやりと地に足が付いていないようで、先ほどのことはすべて夢だといわれても今なら信じてしまえそうな気がした。



Darf ich bitten?

(けれど握られたままの右手が、そうさせてはくれなかったのだ!)





まき様リクエストの墺とダンスな菊妹ヒロイン甘夢です。
エスコートさせ過ぎてヒロインもちゃんとダンスできてしまいました。(!)
リクエストありがとうございました。

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