たちこめるもやのような黒い空気。
ずらりと並ぶは布のかけられた死体、死体、死体。
どん底にたたき落とされた少年を救い上げてくれる手はなくて、自分で立ち上がるしかなかったあのとき。
それから自分は、スコープ越しに覗いた人間を、その急所を正確に撃ち抜いてきた。それはガンダムマイスターになってからも同じで、狙い撃つ対象の見かけが、MSになっただけ。
自分が手に掛けたものたちを、忘れたことはない。忘れられるわけがない。
悪夢となって襲いくる亡者達の叫び。
死にたくなんかなかった。お前が私を。どうして殺した。
足元から無数の血塗れの手が伸び、奈落へと引きずり込もうとする。
―数多の命を手に掛けてきた自らの罪は、償わなくてはならない―。
目を閉じて、ひやりとした感触に身を委ねる。上がってくる手、感覚の薄れた足先、漆黒の世界。
「パパ!!」
みぞおちに走る衝撃に呻きを上げる。
前髪を容赦なく引っ張られて目を開ければ、きらきらとした瞳がこちらをのぞき込んでいた。
「おはよー、パパ」
「…おはよう。」
仰向けに寝ていた自分の上に跨る小さな体に、先ほどの衝撃の正体は明白。
ひょいと抱えあげて床に降ろし、頭をなでてやれば、くすぐったそうにえくぼをつくった。
「こういう起こし方はしちゃダメだって、前言ったろ?」
「いった!」
悪びれることのない少年の様子には、ため息を通り越して笑顔さえわき出てくる。こいつめ、と指先で軽く額を弾くと、声を上げて嬉しがる様子が愛おしい。
お返しとばかりに容赦なく掛け布団を剥がれて、冷たい空気が覚醒を促す。身を縮こまらせた俺には悪戯っぽく笑うと、俺の服の裾を引っ張った。
「ん、なんだ?」
「ママがねぇ、ごはんですよーって。」
「呼びに来てくれたのか?」
「ぼくのおしごとなんだ!」
「へーえ?」
「だからパパ、はやく―!」
「わかった、わかった」
引っ張る力を強めたには勝てない。親指を握る小さな手にひかれて寝室を出、ダイニングへと向かう。
扉を開けた途端、ほわりと暖かい空気が体を包む。
レースのカーテンが取りこぼした朝の光がカーペットへと降り注ぎ、ほのかにたちこめた香りが食欲をそそる。
「おはよう、ニール」
「おはようさん」
カウンター越しに見えるは一度笑顔をこちらに向けると、下を向き直って調理を再開した。
パパはここ、促す少年に言われるがまま椅子に座ると、はちょこんと俺の隣に座る。
ふんわりとしたスクランブルエッグとかりかりに焼いたベーコン、半球状に整えられたポテトサラダが乗った皿とともにはやってきて、皿を俺との前に配置していく。
「、おしごとは成功したみたいね?」
「うん!できた!」
「はおりこうさんね。あとでお給料あげないとね?」
「うん!」
はそのまま残りの皿を取りに行こうとキッチンにとって返していった。
給料だって?ほんの幼稚園通いの子どもに?眉根を寄せるが、はしゃぐの姿をみては何も言えない。
戻ってきたが皿を自分の前に置き、俺の向かい側に腰掛けた。
簡単な祈りを捧げて、朝食が始まる。
が持ってきた皿の上のメニューの他に、テーブルの上にはオレンジジュースとバターロール、ヨーグルトが並べられている。
「着替えずにご飯食べるの、珍しいね。」
「ああ、言わなかったか?今日は休みなんだ。」
「そうだったんだ。平日なのにね?」
「上司が気まぐれなもんでね。」
「パパおやすみなの?ぼくゆうえんちいきたい!」
「残念。は幼稚園がちゃあんとあるんだなぁ。しかもお泊まり会よ?」
「えー…でも、おとまりかいいきたい…」
「はは、また連れていってやるから。もパパも休みの日にな」
「む―…ぜったいだよ!」
「もちろんだ」
「はいはい、、冷めちゃわないうちに食べてね」
「はぁい」
はスプーンに盛ったままだったスクランブルエッグをぱくりとしたあと、バターロールにかぶりついた。
口の中のものを一度すっかり飲み込んでしまえば、ケチャップを付けた口をまた開く。
「きょう、パパとママ、ふたりっきりなんだぁ」
至極嬉しそうに次の朝食を頬張る。
そうだな、と答え、その頬についたケチャップをティッシュで拭うか拭うまいか迷う。しかし今拭いたところで、ケチャップもヨーグルトも、彼の口元につく予定まんまんなのだろう。そう感じ、延ばしかけた手をコップに向けた。
「じゃあぼく、おとうとがほしいな〜。」
それまで流暢に食事をしていたの動きが止まった。ぽかんと口を半開きにした様子がかわいいなとか思っているあたり、俺も大概混乱しているらしい。
この小さな息子の中で、どのようにふたりっきりと弟が結びついたのだろうか。
最近の幼稚園は少し進みすぎてやしないかと俺が思考をめぐらせ、が放心している間にも、はでもやっぱり妹もかわいいかなぁだことの、お兄さんもほしいだの言っている。が、さすがにどうがんばっても兄は無理だ。
「あ、あぁ、?お前弟が欲しいのか?」
「そう!だめ?」
「いや、そういうわけじゃないが…」
「おもちゃじゃないのよ?じ、時間もかかるし…」
「ぼく、たくさんまつよ!」
屈託なく笑う。は頬を染め、困ったような表情で俺の様子を伺った。子どもを産んでも、照れ屋なところは全く変わっていない。
「よし、分かった。待ってろ。もしかしたら妹になるかもしれないけどな?」
「いいよ!」
「に、ニール…」
「いいだろ、?」
笑みを浮かべれば、は微かに頷いて、若干早めのペースで朝食を再開した。…撤回は聞かないからな。
先に食事を終えたが早々に席を立ち、幼稚園の支度を始める。
自分で淹れたコーヒー片手にの朝食に付き合うかたちで俺はそれを見守った。ようやく食べ終えたを着替えるように促す。俺はと共に席を立ち、が運んでいった皿一式を加えた三人分の食器を洗い始める。
ほどなくして幼稚園生が誕生し、俺は皿を洗い終えた。
コートにマフラーのがやってきて、もこもこにされたの手をとる。
「お皿ありがとう。、送ってくるね。」
「おう、気をつけてな。」
「パパ、いってきます!…じゃなかった、『いってくるよ』!」
「お?そりゃ何の真似だ?」
声色を変えて言い直したは、ん、と目を閉じて顔を差し出した。
「パパだよ!『いってらっしゃいのきすは?』」
玄関先で行われている夫婦の恒例をきっちり見られていたことは知っていたが、再現されるとさすがに小恥ずかしいものがある。
普段見送る側のは唇にくれるが、息子相手にはそうもいかないので頬にくれてやる。
「えへへ。いってきまぁす!!」
家を出発したとを見送って、俺は洗顔やらなんやらにとりかかる。が戻ってくるのはすぐというわけではないが、そう遅くもならないはずだ。
玄関からの帰宅を告げる声に、迎えの声を返す。
そういえば迎える側になったのは初めてかもしれない。
後ろから彼女が抱きついてきて、おかえりっていいね、と呟いた。
だろ、と返すとはより密着してきた。
なんだか妙にドキドキするのはおそらく、息子から間接的に示唆された艶事を体が思い出してしまったからだろう。
彼が産まれてからずっと、…していなかったというわけでもないが、2人の時間は確かに細切れで。
「こういうの久しぶり。新婚に戻ったみたいね」
腹に回った手に指を絡めれば、は背に顔を埋めたまま笑い声をもらした。かちり、と2人の左手薬指にはまったリングが重なる。
「ちょっと待っててね、お洗濯しなくっちゃ」
「手伝うぜ。」
「お休みの日ぐらいゆっくりしてていいよ?」
俺から離れ、くすりとはにかんだは脱衣かごから洗濯機に服を放り込み始めた。その中に俺のトランクスが入っているのには、少しは慣れたらしい。
「そんなこと言ったら、お前には休みなんかないじゃねぇか?」
・は、CBの活動を終えてしばらくすると、毎日家事に追われる主婦、ニール・ディランディの妻という道を選んだ。
彼女は主婦として日々の家事もこなすばかりか、ボランティアや内職のようなことにも精力的に取り組んでいる。給料は十分に持って帰ってきているつもりだが、彼女は自分の趣味のためにそれに手を付けることはなかった。
昔からがんばりすぎるきらいのあるは健気でかわいいと思うが、無理がたたって倒れでもしたらと考えると気が気ではない。
「でも…」
「ふぅ、わかったよ。洗濯はがするんだな?なら俺はゴミ出しの係だ。今日は…燃えないゴミの日だったな?」
「…うん、ありがとう。」
じゃぶじゃぶと洗濯漕に水が溜まっていく音を後に、家中のゴミ箱をまわってゴミ袋にひとまとめにしていく。その間は皿をしまいにキッチンへ。
ゴミ袋片手に外へ出てみると、珍しく青空が広がっていた。
お泊まり会にともなうだろうプログラムもきっと、滞りなく進むに違いない。 通りがかりの近所の主婦に挨拶しながら、所定の位置へゴミを出してくると、いつもどおりにが迎えてくれた。
「おかえりなさい。外、寒くなかった?」
コートも着ないで外に出た俺を心配していたらしい。確かに肌寒くはあったが、ゴミ捨て場までそう距離があるわけでもない。
心配性だな、と笑うと、ニールほどじゃないよと返ってきた。…まあ、確かにそうかもな。
洗濯物を洗濯機に委ね、リビングのソファに2人でかける。間に息子がいないのは違和感があるような気がするし、懐かしいような気もする。不思議な感覚だ。
控えめに寄り添ってくるの肩を抱き寄せ、さらさらの髪をすくように撫でる。同じシャンプーを使っているのに、自分ともとも違うどこか甘い香りが心地良い。
「にお給料やるんだって?」
「そうなの。現物支給だけどね。」
「なんでまた、そんな話になったんだ?」
「あのね、ニールがお仕事行くじゃない?なんで私を置いてまで行くのかって聞かれちゃって」
『パパはママのこと大好きなのにどうして?』きゅるんとした瞳で尋ねられて、は困惑したのだという。そして、紆余曲折、給料の話に至ったらしい。
「そしたら、ぼくもお仕事したい、そしたらお給料もらえるねって。」
「俺を起こすのは給料制か?愛が足りないぞ、愛が。」
「ふふ…でもね。あの子、お給料が欲しいんじゃないの。お給料をもらって、私にあげたいんですって。…パパみたいにね。」
「そりゃ妬けるな。」
「私もよ」
くすくすと二人して笑いあう。父に憧れ、母を想う可愛い。そして最愛の妻である。
一度は失った暖かな家族が、形を変えてここにはあった。否、血に泥にまみれて、ようやく掴み取ることができた。
皮手袋は、もう必要ない。
こんなにも愛おしいものたちを、素手で触れていられる喜び。
「なあ、。愛してる。」
「なぁに、突然。」
「いつだって思ってるが、改めてな。…大好きだ。、ずっとそばにいてくれ。」
「…病めるときも健やかなるときも。そう誓ったわ。」
ニール、愛してる。彼女の言葉が終わるが早いか、俺は愛妻の唇と吐息とを奪った。
天国と地獄。
(洗濯物が片付いたら、次は弟作りに入るか?)
(…夜になったら、ね。)
(了解!)
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