●さよなら わたしの おうじさま
「じゃあ、ね」
お姫様は泣き出しそうな目元でそういって、それからぱったりと軍師の元に通う足を途絶えさせました。
お昼を抜いて、夜を抜いて、心配した女官の差し入れの夜食と、朝食とで軍師は暮らしていました。
窓はいつも開け放してあるのに、そこから現れるはずのお姫様はいつまでたっても、来ませんでした。
はじめは、さすがにあの「誘拐」のために叱られて謹慎させられているのかと考えましたが、
事前から周瑜に取り計らってあったのなら、彼を通じて彼女の兄たちの耳に届かぬはずがありません。
お姫様の笑顔が頭から離れず、目に見えて作業の効率が落ちてきたものですから、
軍師は仕事にひとつ区切りをつけて、お姫様を探しに行くことにしました。
そこで、気づきました。
自分がお姫様のことを、ほとんど知らないということに。
孫呉のお姫様で、笑顔がかわいらしくて、優しくて。
でも、おてんばで、悪戯も好き。
料理はうまくなかったけれど、最近は目に見えて上達してきて。
…軍師のことを慕っていて。
けれども、彼女の好きな物や、よく行く場所や、自分といないときはどうしているか、
そういう、彼女自身のことを軍師は一切知らなかったのです。
だから、彼女の部屋を直接訪ねた軍師は、途方に暮れてしまったのです。
そこには、お姫様はいなかったのですから。
「散歩に?」
「はい、そう仰られて、お出かけになりました。」
「どこか心当たりはありませんか?」
「いえ、ございません…私より陸将軍のほうが詳しいのでは?」
「ああ…。ありがとうございます。」
彼女の女官に聞いても、詳しい場所までは知らず。
途方に暮れた軍師は、やむなくお姫様の妹姫、尚香の部屋へと向かいました。
「姉さま、…」
かすかに聞き取れるその妹姫のききとりやすい声質の声が、お姫様がそこにいるのだと伝えてくれました。
けれどもその、複雑な感情の入り混じった響きが、軍師をその場に留まらせます。
彼はそっと、部屋の外で聞き耳を立て始めました。
「いいわよ、姉さま。お嫁なら私が」
「だめ、だめ。尚香には幸せになって貰いたいの。だからそんなの、だめよ!」
「いやよ、私だって姉さまには幸せになってほしいもの!それに姉さまには陸遜がいるじゃない!」
姉妹の言い争いの原因は、先日お姫様が漏らしていた政略結婚についてでした。
陸遜は表情を固くして、息を殺します。
「蜀に行ったら、陸遜には会えないんだからね!」
お姫様は息を詰まらせて、ぎゅっと唇を噛みしめて。
静かな時間が通り過ぎて、お姫様はぽたりと涙をこぼしました。
軍師は初めて見る、涙でした。
「…陸遜と、別れて…悲しいのは、私…、だけよ」
ぽとぽと涙を落とすお姫様に、妹姫は呆然としました。
「どういう、こと?姉さま、…陸遜だって悲しむでしょう?」
「表向きは、ね。でも、…」
お姫様は俯いて、また顔をあげたときには、微笑んでいました。
「もう、これ以上、迷惑をかけたくないの」
「付き合わせて、振り回して、でも」
「わたしはこういう身分だから」
「嫌だなんて言えないのよ。」
「最後に、思い出も貰ったし、」
「もう、いいの。」
「…どうして」
軍師はいつのまにか、自分の部屋にいました。
頬にはなみだが伝っていました。
両親を失った時以来の、涙でした。
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