ゆらゆらとたゆたう意識が、暖かな声にゆっくりと手繰り寄せられる。
悲しげで、必死で、…泣き出しそうな声が。 意識は、海から引き上げられる網にかかった魚のように上がっていった。 なにもかもが混濁して訳が分からない。 ただどこかが不快で、とてもとても不快で。 もう一度さっきまでのあの甘い甘い感覚に溺れようとすら思った。 けれどそれは敵わず、吐きそうな不快さと激痛を伴って、彼女は薄っすらと目を開けた。 そこは涼やかな風と花の香の漂う、美しい、小川のほとりだった。 「……いや、…。」 心からの安堵を形にしたようなそんな表情で、壮年の男は言った。 壮年の男?…なんて白々しい。彼女の親代わりのような人であるのに。 ヒューゴ・ジルクリスト。それが男の名前だった。 言いたいことが沢山いろいろあるというのに、なにかが邪魔をして言葉が発せない。 精神的なものではないはずだ。もう一度会うのなら、問い正したいことが本当に沢山あったのだ。 表情筋を動かすことは出来るようで、思いっきり怒りを込めて睨んでやると ヒューゴは悲しそうに自嘲し、また口を開いた。 「ともあれ、…よかったよ……、お前まで失ってしまったら、私は……」 激しさの微塵もない、震える声で呟く。 『お前、まで?』困惑の表情を浮かべると、彼はく、と頭を下げた。 「…すまない、…全て私の責任だ……ベルセリオスに…ミクトランに乗っ取られた…私が…。 本当にすまない……私一人のせいで、、お前にまで迷惑をかけてしまった…」 突然のことには驚き、何か考えることも出来ない。 ただただ育ての親に、ヒューゴに手を延ばす けれどそれ以上進めないのが本能的に分かった。そしてまだ、自分はそちらには行けないという事も。 「私は死んでしまったのだよ、。もう触れることも叶わない。」 ヒューゴは、光と影の境界まで近づき、見えない壁に手を当てた。 いとおしそうに目を細め、そして悲しそうに手を下ろした。 「今まですまなかった、、ありがとう、お前のおかげで、私は」 ふっと床が抜け、大きな喪失感が襲う。 落ちる!上下の無い闇の中で思ったのは、果たして杞憂だった。 目を開くと、まるで見たことも無い場所に横たえられていた。 ずきずきする頭を抑えながら起き上がり、あたりを見回すと、 巨大なレンズと一人の男の姿が見えた。 金色の長髪は一瞬スタンを彷彿とさせたが、纏う雰囲気はまったく違う。 起き上がったに気づくと、男はにやと笑みを浮かべて近づいてきた。 「・・・お前は?」 「命の恩人に対して酷い言い草だな。」 「・・・。」 「捨て駒にしては良い働きだった。だが私の世界には及ばん。」 男は上半身だけ起こしたの体を容赦なしに蹴り上げる。 床にたたきつけられ、一瞬息ができずに喘いだ。 「最後にもう一仕事ある。事によってはマリアンとリオン、三人で住まわせてやってもいいぞ。」 断れば三人とも殺す。そういって男はの背後を示した。 椅子に座り目を閉じてうなだれるリオンがそこにいた。 服の切れ目もそのままの彼を見、は唇を噛み締めた。 「ぁっ!!」 聞き覚えのある、今は、いやさっきから永久に、とても聞きたくなかった声が叫んだ。 「…スタン…」 「ミクトラン!!に手を出すな!」 何処かで聞いたその名に、不思議な空間を思い出す。 ヒューゴは言っていた。『ミクトラン』に乗っ取られていたと そうだ、ヒューゴは時々、人が変わったように邪悪なことがあった。 の前では優しかったのに、リオンが来ると途端に厳しくなるのはしょっちゅうだった。 「騒がしい虫けらどもだな。・・・来い。」 男がそういうと同時に。部屋の奥から人影が出てくる。 最初闇にまぎれるばかりだったそれが神の眼の発する光に照らされてはっきりするにつれて、 の瞳は見開かれた。 「…!!」 「…リオンっ!?」 の口から出されなかった言葉は、ルーティが代弁してくれた。 先ほどからぴくりともしなかったリオンはゆっくりと歩んで来る。…どこか不自然な様子で。 勿論顔も服も紛れも無くリオンなのだが、彼の纏う雰囲気はまるで。 「貴様…!!」 「リオン!」 瞬きすらしない、半開きの濁った紫の瞳。この淀んだ色は、何度も何度も見てきた。 何度も…見てきた。 もう二度と動くことのない、人の目の色。 「リオンに何したの!?」 「何とはまた。殺したのを生き返らせてやっただけのことだ。」 「なっ・・・」 絶句するルーティに、男はまたにやりと笑った。 「不満か?」 「不満とか・・・そんな問題じゃないだろっ!!」 が近づくと、リオンは何事か呟いていた。何度も何度も。同じことを。 ドン、と突き飛ばされ、男はわかっているな、と言った。 突き飛ばされた分の距離をリオンは、表情を変えずに詰めた。 まだぶつぶつと何事か聞こえる…もう彼は、彼ではなかった。 「殺せ。」 男の声に、リオンが飛び掛っていった。 それに続くのがの役目だった。 切り掃い、隙の出来た相手にがたたみ掛ける。それが一番単純な型だった。 …それらはもう、過去のことでしかないんだ。 もう縛られたくは無かった。仲間にだって当然剣は向けたくなかった。 男の出した条件はもう無意味だった。 はこんな廃人のようなリオンをこれ以上、一秒も見ていたくなかった だから思いきり、つき立てた。 痛くないように、迷いのないようにその細く小さく薄く けれど今まで私を引っ張ってきた他の何よりも安心できる存在だった彼の、心の臓に向かって―… 手応えはあっけないほどなかった。硬い骨に当たる感触もなく上手く肋骨の間をすり抜けて彼を突き抜ける黒い刃。 そして数瞬。どす黒い粘性のある赤い液体を撒き散らし、黒い刃身の剣と共に彼は床に崩れた。 みっともなく、手をつくこともせず頭から、全身で倒れていった。 銛で刺された川魚のようだと、少しだけ笑いがこみ上げた。 振り切って目の前の仇を見据えたはずなのに、どうして、 こんなに涙ばかり出るんだろう。がむしゃらに、は短剣を振るった。 肉を貫いた感触はたとえモンスターのものでも、いくらかの脳を、神経を麻痺させた。 今も同じ。狂戦士のように彼は…否、彼女は到底勝ち目のない戦いに赴いたのだ。 断ち切るなどできる筈がなかった。 大切な大切な唯一無二の相棒だった。 幼い頃から分かち合った、兄弟のような半身のような相棒だった。 ……最愛の、ひとだった。 最後の力を振り絞って特攻していったつもりだったのに木の葉のようにあっけなく吹き飛ばされ、 体中床に打ち付けられた。左腕が無抵抗に闇の杭に穿たれる。 は空っぽに微笑んだ。もうそっちの感覚はないから、攻撃は無駄だとさえ感じた。 痺れてしまったのか、体よりも誰かの嗚咽が痛かった。 それも止むと、どこかほっとしてしまった。 やっとここで目覚める前に行った・・・ヒューゴのいた場所にいけるのだと。 仰向けに倒れてもう動かない私の血と傷と火傷にまみれた腕を、誰かが掴んだ。 朝霧のように霞がかる視界をなんとか動かして、はぼんやりと掴まれた腕の方を見る。 掴んだというより触った、というほうが近いような弱弱しい感触で、 何度も羨んだ長く細い指が袖に絡み、その先には、鮮血でべったりと纏まった黒髪。 間から、澄んだアメジストが見えた。 青白い唇は緩やかにカーブを描き、人前では殆ど見せないうつくしい微笑みをみせて、 彼はすこしだけ、唇を動かした。 けれどの耳はもう、聞くことが出来なくて。 けれどリオンの咽喉はもう伝えることが出来なくて。 主人が伝えることの出来なかった言葉を代弁するかのように、シャルティエが囁く。 『、有難う。本当に…本当に………』 永い間聞いていなかった、頭に直接響いてくる声をなんとか認識して。 少女はぽたりと一筋だけ涙をこぼしてから、ぎこちなく微笑んだ。 そして、唇を少しだけ開いて NEXT BACK |